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東京地方裁判所 平成元年(ワ)6891号 判決 1992年7月27日

原告

光野恵美子

右訴訟代理人弁護士

國本明

齋藤雅弘

被告

小林秀成

小林英夫

東洋理療株式会社

右代表者代表取締役

小林英夫

右三名訴訟代理人弁護士

岡村親宜

古川景一

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金四九六万五六七九円及びこれに対する昭和六三年七月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の負担とし、その余を被告らの連帯負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告らは原告に対し、各自金一二五七万三二〇〇円及びこれに対する昭和六三年七月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が被告小林秀成(以下「被告秀成」という。)から鍼治療の施術を受けた際、鍼が折れて体内に残置されたことについて、原告が被告秀成に対して不法行為による損害賠償を求めるとともに、被告小林英夫(以下「被告英夫」という。)及び被告東洋理療株式会社(以下「被告会社」という。)に対して、それぞれ代理監督者及び使用者にあたるとして民法七一五条の規定に基づき損害賠償請求をしている事案である。

一当事者間に争いがない事実

1  当事者

被告秀成は、昭和六三年四月に鍼師(あん摩マッサージ指圧師はり師きゅう師等に関する法律により免許されたはり師)の資格を取得し、被告会社の経営する鍼灸院に勤務していた者であり、被告英夫は当時被告会社の代表取締役であった者である。

原告は、主婦であり、被告秀成とは従姉妹の関係にあったが、当時被告会社において被告秀成から鍼治療を受けていた者である。

2  本件事故の発生及びその後の経緯

原告は、昭和六三年七月一九日、被告会社の経営する鍼灸院において被告秀成から鍼治療を受けたが、その際、原告の項部左側のいわゆる風池穴と呼ばれる部位から挿入された鍼が折れ、約三センチメートルの長さの鍼が原告の右部位の体内に残置された(以下「本件事故」という。)。

原告は、本件事故発生直後に診察を受けた日本医科大学付属病院(以下「日本医大病院」という。)の医師の指示により即日同病院に入院し、同年七月二六日鍼を摘出するための手術(以下「本件手術」という。)を受けたものの、鍼の摘出には成功しなかった。原告は同年九月一六日に退院した。

二争点

1  原告の主張

(一) 本件事故の原因

本件事故は、被告秀成が原告に施術を行う際、左風池穴に使用した鍼(以下「本件鍼」という。)が、傷や腐食又は金属疲労あるいはそれら複数の原因により脆弱であったため、通常であれば折れないような何らかの弱い力によって、施術中に折れてしまったことによって生じたものである。

(二) 本件手術の必要性

本件事故によって折れて原告の体内に残置された鍼(以下「本件伏鍼」という。)は、原告の脊椎管腔内に入り込み、その先端がほとんど延髄の硬膜にまで到達している状態であって、そのまま放置すれば、鍼が進んで延髄に突き刺さり、死に到る切迫した危険性があったため、外科的手術によって出来るだけ早く本件伏鍼を除去するか、あるいは安全な位置に移動させなければならない緊急の必要性があった。そこで、原告は整形外科の専門医による本件手術を受けたが、手術は困難を極め、伏鍼の一部の除去に成功しただけで全部の摘出は出来なかったものの伏鍼は延髄を迂回するような位置に移動し、取りあえず生命に対する切迫した危険性はなくなった。

(三) 損害

原告が本件事故によって被った損害は以下のとおり合計一三〇三万五六六〇円であるが、原告はそのうち四六万二四六〇円の弁済を受けているので、未払額は一二五七万三二〇〇円である。

(1) 治療費 四一万一四一二円

(2) 入院雑費 九万円(日額一五〇〇円の六〇日分)

(3) 付添看護料 二七万円(日額四五〇〇円の六〇日分)

(4) 通院交通費 三万六〇〇〇円(日額一二〇〇円の三〇日分)

(5) 休業損害 一〇二万八二四八円

(a) 原告は主婦であるが、入院中及び退院後二か月間は全く家事が出来なかった。この間の休業損害は八二万一二四一円である。

(b) 原告は、退院後二か月以降四か月までの間は、家事労働がかなり制約された。その割合を五割とすると、この間の休業損害は二〇万七〇〇七円である。

(6) 慰謝料 一〇〇〇万円

原告は本件事故の結果、非常に切迫した生命の危険にさらされたばかりか、八時間を超える危険な大手術に耐えなければならなかったものであるし、合計六〇日に及ぶ入院と現在に至るまでの通院とを余儀なくされている。また、依然として体内に鍼が一部残存したままであり、本件手術あるいは本件伏鍼の影響により現在でも激しい頭痛、右手小指及び薬指のしびれ、耳鳴りと難聴、左目の視力低下及び手の筋力低下等の後遺症に悩まされているうえ、本件伏鍼の影響で核磁気共鳴造影装置による診断を受けられないという不都合も存する。さらに、平成元年二月には突然意識を失って倒れるという症状も出ている。他方、本件伏鍼を今後完全に除去することは事実上困難であり、鍼が残置されている場所が延髄周辺であることから、将来この本件伏鍼が原告の生命や身体に対する重大な影響を及ぼさないという保証はなく、原告は絶えず不安を抱えながら生きていかねばならない。

これらの事情を考慮すると、本件事故によって原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、一〇〇〇万円が相当である。

(7) 弁護士費用 一二〇万円

本件事故と相当因果関係のある弁護士費用は、一二〇万円である。

(四) 被告らの責任原因

(1) 被告秀成の責任

(a) 鍼施術を行う者は、一般的に、施術に当たり使用する鍼に傷、欠損、腐食等の不良がないかどうか入念に検査し、施術においても折鍼につながるような刺入方法をとらないことはもちろん、患者に対して施術中に折鍼事故につながるような体動や姿勢をとらないように指示、説明したうえで、施術中の患者及び鍼の状況を常に監視して、施術中の折鍼を防止する高度の注意義務を負うが、特に刺入した鍼に低周波パルスを通電する治療方法をとっている場合には、通電に伴う振動による金属疲労やパルスの刺激による強い筋収縮によって、折鍼の危険性が増大するのであるから、右注意義務はさらに加重されるというべきである。

(b) 風池穴付近は、脳から延髄、脊椎に連なる人間の生命や運動の中枢が集中している場所であり、ここに鍼施術を行う者は、挿入した鍼が延髄や脊椎に到達したり、万一折鍼事故が生じた場合に伏鍼が延髄や脊椎の方向に向くことがないよう、刺入の方向、角度及び深さに慎重を期する必要があり、原則として直刺で対側の眼窩の内下縁に向けて一ないし1.5寸の深さに鍼を刺入するか、斜刺で対側の風池穴に向けて二ないし三寸の深さに鍼を刺入する方法をとり、それ以上深く刺入したり、鍼が頭蓋腔や脊椎管腔に向かうような方向に刺鍼してはならない注意義務がある。

(c) しかしながら、被告秀成は、前記(1)の注意義務に反し、通常施術に際し低周波パルスを通電する方法を用いていた(しかも、電極を傷つきやすい鍼体部分に接続するという方法をとっていた。)にもかかわらず、鍼を事前に入念に検査することなく漫然と原告に対する施術を開始し、鍼の刺入に際しても、本来髪の毛を頭上に持ち上げて施術すべきであるのに単に髪の毛をかき分けただけで鍼を刺入したため、髪の毛の重みが鍼にかかって鍼が折れやすい状況に置いたうえ、施術中は原告を放置して退室してしまい、原告及び鍼の状況を監視することを怠った結果、施術中に鍼が折れ、また、同(2)の注意義務に反し、あえて原告の反対側の眼窩外上方に向けて鍼を深く刺入してしまった結果、折れて体内に残置した鍼が脊椎管腔内に侵入し、原告の生命に切迫した危険を生じさせた。

したがって、本件事故は被告秀成の過失による不法行為によって生じたものであり、被告秀成は原告の被った前記損害を賠償する責任を負う。

(2) 被告会社及び被告小林英夫の責任

(a) 被告秀成は、本件事故当時、被告会社の経営する鍼灸院に勤務していた者であり、かつ本件事故は被告秀成が被告会社の事業を執行するに当たって生じたものであるから、被告会社は民法七一五条一項の規定に基づき、使用者として、原告の被った前記損害を賠償すべき責任がある。

(b) 被告英夫は、本件事故当時被告会社の代表取締役であり、かつ被告会社の経営する鍼灸院の院長であったが、当時鍼師の資格を取得したばかりで技術的にも未熟であった被告秀成の施術を監督すべき立場にあったにもかかわらず、原告に対する施術を被告秀成に任せきりにし、その結果本件事故を招来した。したがって、被告英夫は、民法七一五条二項の規定に基づき、代理監督者として原告の被った前記損害を賠償すべき責任がある。

2  被告らの主張

(一) 本件事故の原因

折鍼の原因は、原告が被告秀成の注意にもかかわらず、施術中に不用意にも頭部を左斜め後ろに伸展したことにより、頭半棘筋の収縮及び後頭骨の下端によって鍼が折れたためであり、鍼に欠陥があったためではない。

(二) 本件手術の必要性

体内に折れた鍼が残置されても、その部位が胸である場合は気胸を発生させる虞れがあるが、それ以外の場合には、鍼の回りを結合織若しくは搬痕組織が覆ってしまい、体内での鍼の移動も余りなく、危険性はない。本件事故の場合も、そのまま放置しておけば伏鍼の回りを結合織が覆ってしまい、全く危険は生じなかったにもかかわらず、本来必要のない手術が行われ、かえって伏鍼を原告の延髄近くにまで潜り込ませてしまったものである。しかしながら、現在では伏鍼の回りを結合織が覆い、生命、身体に対する危険は全くない。

(三) 損害

前記したとおり、本件事故には原告の主張するような危険性はなく、本件手術も本来不必要なものであったのであるから、原告の主張する損害はいずれも被告秀成の行為と因果関係がない。

また、現在では伏鍼の回りを結合織が覆い、生命、身体に対する危険は全くないのであるから、その意味でも原告の慰謝料請求は失当である。

(四) 被告らの責任原因

(1) 被告秀成の責任について

(a) 被告秀成は、原告に鍼施術をするにあたり、欠陥鍼を使用してはならない注意義務並びに刺鍼及び抜鍼において折鍼を防止すべき注意義務を負っていたが、それ以上に原告の主張するような「挿入した鍼が脊髄や延髄に到達しないように配慮する義務」や「施術中に鍼が折れて施術を受ける者の体内に鍼が残置することのないようにする注意義務」を負うものではない。

また、風池穴は鍼治療においては通常鍼を刺す部位であり、その場合、反対の眼の方向に向けて三センチメートル程度挿入するのが一般的であるから、原告の主張するように対側の眼窩外上方に向けて刺入してはならない義務が一般的に認められているわけではない。

(b) 本件鍼はステンレス製であり、通電による腐食には極めて強いうえに使用回数も一〇回以内であったから、本件事故当時腐食等の欠陥があったとは考えられず、鍼が折れたのは専ら原告の不用意な体動によるものであるから、被告秀成に何ら過失はなかった。また、被告秀成は、風池穴に刺鍼するに際し、一寸三分の鍼を使用し、反対側の眼の方向に向けて約一寸の深さにまで刺入したのであるから、刺入の方向及び深さについても何ら問題はなかった。なお、被告秀成が施術中原告の側を離れていたのは、女性の患者の場合通常のことであって、何ら問題はない。

(2) 被告会社及び被告英夫の責任について

原告に対する鍼施術は、原告が被告秀成の従姉妹に当たる関係上、被告会社の業務とは関係なく、被告秀成の好意により無料で行ったものであるから、被告会社及び被告英夫に対する民法七一五条の主張は理由がない。

第三争点に対する判断

一証拠(<書証番号略>、証人白井康正、原告本人、被告秀成本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  本件事故発生の経緯

(一) 被告秀成は、昭和六三年三月に東京鍼灸柔道整復師専門学校を卒業し、同年四月一三日に鍼師の免許を取得し、同被告の父である被告英夫の経営する被告会社に入社して鍼治療に携わるようになった。

原告は、被告秀成の従姉妹に当たり、従来から肩を始めとする全身の痛みに悩まされていたところ、姉の藤井よしの紹介で被告秀成の鍼治療を受けることとなり、本件事故以前にも二度被告秀成の治療を受けていた。なお、原告は、それまでに被告会社において何回か鍼治療を受けたことがあり、鍼を打たれることには慣れていた。

(二) 昭和六三年七月一九日、被告秀成は、鍼治療のために来院した原告をまず仰向けに寝かせ、両足の大腿部中央付近にある伏兎と呼ばれる穴から順に両足の甲部にある太衛と呼ばれる穴まで計一八本の鍼を刺し、そのうち伏兎穴、血海穴、三陰交穴及び解谿穴に電極を接続して低周波パルスを五分ごとに電極を切り換えて約一〇分間通電した後、鍼を抜いた。被告秀成は低周波パルスを通電している間は、電極切替時を除き、施術室から出て控室において待機していた。

右施術の間、鍼には特に異状は認められなかった。

(三) その後、被告秀成は原告を伏臥位にし、後頭部にある完骨と呼ばれる穴から順に、項部にある左右の風池穴を含め、足首にある崑崙と呼ばれる穴まで、計四二本の鍼を刺入した。同被告は、風池穴に鍼を刺入する際には、原告の髪の毛をかき分けて皮膚を露出させ、反対側の眼の瞳の方向に向け約三センチメートル刺入した。

被告秀成が風池穴に刺入した鍼は、鍼体部分が四〇ミリメートル、鍼柄部分が一八ミリメートル、鍼体の直径が0.22ないし0.24ミリメートルのステンレス製の鍼であった。

(四) その後、被告秀成は、天柱穴、大腸兪穴、腎兪穴及び崑崙穴に電極を接続し、低周波パルスを五分ごとに電極を切り換えて約一〇分間通電した。なお、前面に対する施術時と同様、通電中被告秀成は、電極切替時を除き、施術室から出て控室で待機していた。

(五) 被告秀成が約五分後に電極切替えのため施術室に入室した際、鍼の様子に特に異状は見られなかったが、右通電が終了したのち、被告秀成が鍼を抜きはじめたところ、原告の左風池穴に刺入されていた鍼が鍼の柄から鍼体を約一センチメートル弱残して折れており、残りの約三センチメートル程度の部分が原告の体内に残置されていることを発見した。被告秀成は、ピンセットで伏鍼を取り除こうとしたが、当該部位の皮膚がやや隆起しているだけで、折鍼の切断面が露出していなかったため、取り除くことが出来なかった。

2  本件事故後の経緯

(一) 原告は、被告秀成から伏鍼を病院で摘出するように勧められたことから、取りあえず被告会社の近所にあった虎の門病院へ行ったが、専門医が手術中であったことから、向かいにある川瀬病院で診察を受けたところ、日本医大病院を紹介され、同病院に赴いた。

同病院でのX線撮影の結果、本件伏鍼が原告の延髄の方向に向いていることが明らかとなり、同病院の白井康正医師(以下「白井医師」という。)は、取りあえず原告を入院させて経過を見ることとしたが、翌二〇日午後三時ころに実施されたCT検査によれば、本件伏鍼は原告の第一頸椎と後頭骨の間から脊椎管腔に入り込み、先端が延髄の方向を向き、硬膜を超え、硬膜下腔内に達しているものと診断された。ところで、本件伏鍼は、先端が第一頸椎と後頭骨間の隙間から脊椎管腔の中に入り込んでいたため、今後筋肉の動きによって前方に進むことが予測されたが、脊椎管腔の中心には延髄があり、ここが鍼によって損傷されると、たちどころに心停止、呼吸停止をきたし、死に至ることもあるため、白井医師は、極めて危険な状況にあると判断し、同月二一日、同月二六日に本件伏鍼の摘出手術をすることを内定した(なお、原告に対する手術の同意は同月二二日にとられ、この段階で手術が正式に決定された。)なお、術前に鍼の位置を確定するため脊髄造影剤による撮影(いわゆるミエログラフィー)が予定されていたが、術前の体力の低下を考慮して見送られた。

(二) 手術は、同月二六日に行われ、白井医師が担当したが、途中からは脳外科医の矢島医師の応援も得て行われ、透視X線撮影により鍼の位置を確認しながら進められた。しかしながら、鍼が脊椎管腔に入り込んでいたこと、頸椎の間の極めて細い隙間を切り開いて鍼を探索せざるをえなかったこと、多量の出血を伴う部位であったこと等から手術は困難を極め、八時間を越える長時間に及んだが、結局鍼の摘出には成功しなかった。

術中、本件伏鍼は術前よりも奥に入り込んだことが確認されたが、後頭部から切り進めるのはもはや限度に達していたことや、鍼は延髄周辺の危険な位置には存在せず、筋肉からは切り離され、それ以上移動する可能性が少なくなったことが確認されたことから、白井医師及び矢島医師は手術を終了した。なお、術後の検査によると、本件伏鍼が五ミリメートル程度短くなっていることが認められ、それは手術中に血液を吸い取るための吸引器によって吸い取られたものと推測された。

(三) 手術後、原告は白井医師の指示により、経過を見るため入院を継続したが、同月二九日に撮影されたCTによれば、本件伏鍼は大後頭孔に入り込み、クモ膜下腔を通過しているが、延髄を回避する位置にあると診断され、その後何回か撮影されたCTにおいても伏鍼の移動は認められなかった。また、原告には特に本件伏鍼と因果関係があると思われる症状も認められなかったので、本件伏鍼は手術前より奥に入り込んだものの、延髄を迂回する位置にほぼ固定され、危険がなくなったと判断され、原告は、同年九月一六日に退院した。

なお、その後のCT検査によっても、本件伏鍼の位置に変化は見られなかった。

3  折鍼の原因及びその危険性等に関する一般的知見

(一) 一般に折鍼の原因としては、①鍼自体の欠陥、鍼の損耗、通電や水銀塗布による鍼の腐食②患者の不用意な体動③患者の緊張による筋収縮の三つがあるとされているが、現在では鍼の性能が向上し、患者の体動については、火のついたもぐさが直接皮膚上に落ちて患者が急激に筋肉を収縮させたような場合でも、折れることは余りなく、鍼が曲がる(湾鍼)ことがほとんどである。

(二) 鍼が折れて体内に残置された場合、三ないし六週間程の間は筋肉の動きによって伏鍼が移動することがあり、その際神経等を刺激して若干の症状が出ることがあるが、一般にはその後は結合織が伏鍼の回りに形成されて鍼が固定するので特に放置していても危険はないといわれている。ただし、部位によっては伏鍼を放置しておくと臓器等を損傷して危険な場合があり、その一例として、胸部で折鍼した場合には気胸を発生させる虞れがあるとされている。

4  風池穴に刺鍼する場合の一般的知見

風池穴は頭部ほぼ中央に位置する穴で、左右に一対あり、通常鍼治療において刺鍼する経穴とされているが、延髄や脳幹部に近いため、施術においては慎重を期すべき部位とされており、一般的には直刺で対側の眼窩の内下縁に向けて一ないし1.5寸の深さに鍼を刺入するか、斜刺で対側の風池穴に向けて二ないし三寸の深さに鍼を刺入する方法を取るべきであるとされている。そして、頭蓋腔あるいは脊髄腔のある対側の眼窩外上方に向けて深く刺入する事は禁忌とされている。

二被告らの責任原因

以上の事実を前提にして被告らの責任について判断する。

1 被告秀成の責任

(一)  鍼療法においては、診断によって定められた患者の治療点に金属製の鍼を一時的に刺入することによって治療を施すものであるから、鍼治療を行う者は、当該治療に用いた鍼を患者の体内に残置させてはならない義務を負うものであるが、前記のとおり、折鍼事故により体内に残置された伏鍼は筋肉の動きによって移動することがあり、その部位によっては臓器等を損傷して危険な場合があるから、特に伏鍼の移動によって臓器等に損傷を与える可能性があるような部位に刺鍼する場合には、施術中の折鍼事故を防止すべき高度の注意義務を負うことはいうまでもないところである。そして、風池穴は延髄や脳幹部に近く、伏鍼が延髄や脳幹部に達した場合には死に至ることも有り得るのであるから、被告秀成は、原告の風池穴に刺鍼するにあたって折鍼事故の生じないようにすべき高度の注意義務を負担していたというべきである。

ところで、本件においては、前記のとおり被告秀成の施術中に折鍼事故が生じたのであるから、特段の事情がない限り、被告秀成には右注意義務に違反した過失があったと推認すべきである。

(二)  この点に関し、被告らは、鍼が折れたのは専ら原告の不用意な体動によるものであると主張し、正常な鍼でも、頭部を左斜め後ろに伸展すれば頭半棘筋と頭蓋底によって折れることがあると主張するが、仮にそうであったとしても、被告秀成において原告のかかる体動を防止すべき注意義務を尽くしたこと及び右原告の体動が予見不可能なものであったことについての主張立証はないから、被告らの主張は失当である(被告らは、原告が体の前面に施術を受けた際、右足を外転したことによって豊隆穴の鍼が曲がった旨主張し、被告秀成本人もそれに沿う供述をするが、原告は右事実を明確に否定していること、右足を外転することにより豊隆穴の鍼が曲がるというのはいかにも不自然であることに鑑み、被告秀成本人の供述は信用できない。)。

かえって、前記のとおり、折鍼は被告秀成が原告の背面に鍼を全部打ち終わり、電極を接続して低周波パルスを通電している間に生じたものであること、本件鍼は、鍼柄の下端から約一センチメートル弱のところで折れ、切断面は皮膚直下か、少なくとも皮下一センチメートル以内の場所であったこと(原告は、折鍼後鍼柄には鍼体が残っていなかったと供述するが、体内に残置された部分が約三センチメートルであることから、この供述は採用できない。)、原告は鍼治療は何回か経験しており、特に緊張によって筋収縮を引き起こしたとは考えられないこと、折鍼は患者の不用意な体動によっても生じるものの、かなり急激な体動によっても、鍼は折れずに曲がるだけの場合が多いこと並びに被告秀成本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によって認められる鍼に低周波パルスを通電する治療法をとると鍼が腐食しやすいこと等の事実からみると、本件事故は鍼の何らかの欠陥によって生じた蓋然性が高いものというべきである。

その他、(一)の推認を妨げるに足りる証拠はない(なお、被告秀成本人は、治療に用いるたびに鍼を加圧殺菌し、その後これを肉眼及び指先でしごいて腐食、欠損等の有無を点検し、異状がないことを確認して使用していた旨陳述しているが、それはあくまで一般的にはそのような方法を用いていたというにすぎず、本件鍼の検査についての具体的注意義務を尽くしていたことを意味するものではないから、右推認を覆すに足りない。)。

(三)  したがって、本件事故は被告秀成の過失による不法行為によって生じたものというべきであるから、被告秀成は、本件事故によって原告の被った損害を賠償すべき責任を有する。

2  被告会社及び被告英夫の責任

証拠(<書証番号略>、原告本人、被告秀成本人)及び弁論の全趣旨によれば、被告会社は従業員を約二〇人程度雇用して鍼、灸、按摩等の東洋医療を事業としている株式会社であること、被告英夫は被告秀成の父であり、本件事故当時その代表取締役であるとともに被告会社の開設する施術所「小林鍼灸院」の院長であったこと、被告秀成は昭和六三年四月に被告会社に入社し、本件事故当時被告会社の取締役であったが、これは形式的な肩書にすぎず、実質的には被告会社の一従業員として鍼治療に携わっていたこと、被告秀成の報酬は被告会社から給料という形で支払われていたこと、本件事故が発生した際の鍼治療は、被告秀成及び被告英夫らと原告とが親戚関係にあることもあって無料でなされたが、被告会社の通常の営業時間内に、一般の患者と同様に予約をとったうえなされたものであること、以上の事実が認められる。これらの事実に前記一において認定した事実を総合すると、本件事故は、被告秀成が、被告会社の事業の執行として行った鍼施術の際に、被告秀成の過失による不法行為によって生じたものであると認めるのが相当であるから、被告会社は民法七一五条一項の規定に基づき、使用者として前記不法行為によって生じた原告の損害を賠償する責任を負うというべきである。

一方、右認定の事実によれば、被告英夫は、本件事故当時、被告会社の代表取締役兼小林鍼灸院の院長として、被告秀成を始めとする医療従事者について、選任及び監督を担当すべき地位にあったと認められるから、被告英夫は、民法七一五条二項の規定に基づき、代理監督者として被告秀成の不法行為によって生じた原告の損害を賠償する責任を負うというべきである。

三損害について

1  被告らは、本件手術は不要であった旨主張するので、まずこの点につき検討する。

前記認定の事実によれば、本件伏鍼は極めて危険な状態で原告の体内に残置され、場合によっては鍼が延髄を直撃して死に至ることもあり得る切迫した状況であったこと、鍼が延髄の方向を向いていたため、放置しておくと先端が延髄を損傷し、重大な結果を引き起こす虞れがあったため、緊急に手術によって本件伏鍼を除去する必要性があったことが認められる。被告らは、本件伏鍼はそのまま放置しておいても結合織等に覆われて危険性がなくなったと主張する。しかし、右主張を是認するに足りる証拠はなく、被告らが援用する文献(<書証番号略>)の記載も、「結合織に覆われるといわれている」「結合織につつまれた金属塊として、筋層間に無害な異物として残るもののようである」というものにすぎない。むしろ、本件のように、鍼が頸椎と後頭骨の間に入り込み、その先端が硬膜にまで達しているような場合には、鍼が硬膜を貫き、延髄を損傷することがあり得ること、仮にそのような事態になれば原告の生命に重大な危害を及ぼすであろうことは明らかであり、それを防止するために鍼を摘出する必要性があったことは疑う余地がないというべきである。したがって、被告らの主張は採用できない。

2(一)  治療費

証拠(<書証番号略>)によれば、原告は本件事故に関する治療費として少なくとも四一万一四一二円を支出したことが認められる。

(二)  入院雑費

原告が本件事故による治療のため六〇日間入院したことは前記判示のとおりであり、右入院期間中の諸雑費は一日当たり一二〇〇円と認めるのが相当であるから、入院期間六〇日間の合計額七万二〇〇〇円が原告の被った損害と認めるべきである。

(三)  付添看護料

証拠(原告本人)によれば、原告は入院中は完全看護を受けていたことが認められるから、付添看護料については、被告秀成の不法行為との間に相当因果関係のある損害とは認められない。

(四)  通院交通費

証拠(<書証番号略>)によれば、原告は退院後、平成二年五月までの間に二五回日本医大病院に通院したことが認められ、一回当たりの通院交通費としては一五〇〇円が相当であるから、合計三万七五〇〇円が原告の被った損害と認めるべきである。

(五)  休業損害

原告は本件当時四四歳の専業主婦であり、入院期間中(六〇日間)は全く家事ができなかったことが認められるから、その間については、昭和六三年度賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者の全年齢平均給与額二四七万七三〇〇円の六〇日分である四〇万七二二七円が原告の被った損害であると認めることができるが、退院後について休業による損害を認めるに足りる証拠はない。

(六)  慰謝料

証拠(<書証番号略>、証人白井、原告本人)によれば、原告は本件手術後、手術の後遺症による激しい頭痛や頸部痛、発熱、眼球の痛み等に悩まされたこと、頭痛に関しては現在も軽快していないこと、今後も継続的に鍼の位置を検査するため通院が必要であることが認められる。そして、前記認定した事実のとおり、原告は本件事故により、一時は生命の危険に直面し、一〇時間以上に及ぶ手術を体験し、六〇日間の入院及び長期間にわたる通院を余儀なくされ、また、伏鍼の位置が脊椎管腔という特殊な位置にあるため、今後も不安を抱えて生きていかなければならないことが認められる。

なお、被告らは、本件手術の失敗によって本件伏鍼がかえって脊椎管腔内に進入したのであるから、被告秀成の過失と原告の現在の症状との間には因果関係がないとも主張する。しかしながら、本件手術が緊急の必要性に基づいて行われたことは前述のとおりであるし、また、証人白井によれば、本件手術が極めて困難な手術であって、摘出できなかったからといって必ずしも失敗であるとはいえないこと、鍼の位置は本件手術によって、術前よりは安全な状態に置かれたことが認められるのであって、本件手術によってもたらされた結果が被告秀成の不法行為と相当因果関係がないとはいえない。

一方、証拠(<書証番号略>、原告本人)により認められる原告の他の症状(右手の痺れ、左肩痛、左手の筋力低下、左耳の耳鳴り、左眼の視力低下、突然意識を失って倒れたこと)については、それが本件伏鍼又は本件手術によるものであることを認めるに足りる証拠はない。

以上の事実及びその他一切の事情を総合すると、本件事故によって原告が被った精神的苦痛を慰謝するには、四〇〇万円が相当である。

(七)  弁護士費用

本件事案の性質、認容額その他諸般の事情を考慮すると、被告秀成の不法行為と相当因果関係の認められる弁護士費用の額は、五〇万円が相当である。

(八)  損害額の合計

以上の合計五四二万八一三九円のうち、被告らが四六万二四六〇円を弁済したことは弁論の全趣旨により認めることができるから、原告の被った損害は四九六万五六七九円である。

四結論

以上によれば、原告の請求は、被告らに対し四九六万五六七九円及びこれに対する不法行為の日である昭和六三年七月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから、右限度で認容し、その余は理由がないから棄却することとする。

(裁判長裁判官赤塚信雄 裁判官綿引穣 裁判官谷口安史)

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